日本近代美術における最も重要な問題は、いかにして日本美術が西洋美術の概念と技法を取捨選択しつつ取り入れていったかにある。しかし他方において、同じように重要なのは、日本が西洋から受容する一方ではなく、西洋に向けて自国の美意識を発信してもいたことである。 本研究では、西洋芸術と出会った日本の近代美術にいかなる「和」と「洋」の問題が生じたのか、川村清雄、山本芳翠、竹内栖鳳という3人の画家をとりあげ、具体的な作品と歴史的資料を検討して考察を行った。 洋画家の川村清雄(1852-1934)は、日本の建国神話を象徴的に絵画化した《建国》を描いた。-現在パリのギメ美術館に所蔵されているこの作品の成立と制作の過程について資料を調査し、フランスに寄贈されたこの作品にこめられた和と洋のメッセージを読み解いた。 同じく洋画家の山本芳翠(1850-1906)は、1885年にパリで出版された『蜻蛉集』の挿絵を1描いた。この挿絵の日本美術の伝統との関連を掘り下げ、当時のパリにおいてこの作品のいかなる側面が「日本的」と感じられ、またその美的斬新さのどのような点がヨーロッパ美術に刺激を与えたのかを考察した。日本に帰国後、芳翠は東京音楽学校で行われたオペラ「オルフォイス」の舞台へ意見を担当したが、この背景画についても調査を行った。 京都で活躍した日本画家である竹内栖鳳(1864-1942)に関しては、その渡欧体験が帰国後の作品に与えた影響と変化について検討し、また東京と京都における西洋受容のやり方の相違に注目した。 また、西洋由来の歴史画・神話画制作の基礎となる人体表現、特に裸体表現が日本近代美術にいかにして導入されたのかの問題についての基礎的資料を見直し、再考を行った。
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