本研究は、19世紀から20世紀にいたるチェコ・オペラの創造に向けた一連の動向を、主に「ナショナル・アイデンティティの構築」といった視座から、同時代における「文化ナショナリズム」の問題を含めて検証するものである。本研究の最終年に当たる平成18年度の研究においては、昨年度に纏め上げた「ボヘミアにおけるチェコ近代音楽の創始者」としてのスメタナによる「チェコ国民オペラの成立」に引き続いて、主にA.ドヴォルジャークのロマン主義オペラにみられる「スラヴの精神性」に焦点を当て、とくにロマン主義時代の珠玉の劇作品といえる「妖精オペラ」の誕生について、洞察を深めた。さらに、20世紀初頭のチェコの民俗主義の作曲家として知られるL.ヤナーチェクの劇作品に注視し、とりわけ彼の代表作である《イェヌーファ》の詳細な分析を通して、「チェコ性とは何か」、その概念を広範囲に設定しつつ、同時に舞台芸術における「ローカル・カラー(地方色)」の表出法に言及しながら、芸術作品における「地域主義」や「民俗主義」の諸相(自然描写を含む)について分析および検討を重ねた。 こうして、世紀末から20世紀におけるモラヴィア地方のフォークロアに依拠した「民俗主義オペラ」の成立、即ち「モラヴィア・オペラ」の形成から、地方色の要素を十分に駆使した20世紀現代オペラ1への系譜を辿るなかで、チェコ人が深く抱いてきた「文化ナショナリズム」の問題をそこに重ね合わせながら、言葉と音楽の相互関係性、つまり当時確立された標準チェコ語の「デクラマチオーン」への反駁と「発話旋律」に由来する新たなリズム論の成立、そしてチェコ文学に描かれる「農村の風景」といった伝統性を通して、常に西欧とスラヴの狭間で揺曳し葛藤する中で創出された「チェコ・オペラ」の変遷の過程を、単著『チェコ音楽の魅力-スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェク(ユーラシア選書5)』(東洋書店、2007)として纏め刊行することで、いわゆる民族文化論的な視座から、近現代のチェコ音楽の魅力を究明し、特に舞台芸術という総合芸術作品に表徴される「チェコらしさ」の諸要件についての知見を纏めた上で、さらに「民族性」の問題がその受容の過程としての「国民音楽論争」の展開を通してより明らかにされるという立場に立脚しながら、創作と受容という二層的構造の側面から、チェコ・オペラを貫く「ナショナル・アイデンティティ」の諸条件を含む表徴の全貌を明示することができたといえる。
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