ヨーロッパ近世における美術アカデミーとその周辺における女性裸体の諸相を明らかにすることを目的とする本研究では、最新の研究の収集・咀囑に加え、実例の収集に努めるとともに、美術理論における裸体素描の位置づけを明確にするための作業を行った。フランスでは公的な教育機関では女性裸体モデルの使用は禁じられたが、画家の個人のアトリエでは禁じられていなかった。しかし作品の人物習作のために女性モデルが利用される例は17世紀では稀で、女性像に対しても男性モデルが用いられる「混性的な」裸体素描が主流であった。人物習作のための女性モデルの利用がかなり常態化するのはブーシェやナトワールの世代の1730年代である。特定の作品のためではない女性の「アカデミー」が、少し時代が下るが、18世紀末には個人のアカデミーが開かれるなど広く普及する。それに応答するように、女性アカデミーの版画が出版されるようにな。また、女性モデルをめぐる事件を主題にする作品も作られるようになり、学校での女性裸体モデルの禁忌と女子裸体モデルの普及という矛盾した二つの事態が緊張感をはらみつつ並存する。他国の例について言えば、イタリアはフランスと事情が似ているが、オランダでは17世紀半ば過ぎから女性のモデルがある程度普及し、イギリスでは1730年代から美術学校で女性裸体モデルが導入されている。その過程に底流では、男性生徒の前で女性裸体モデルの利用がもたらす道徳的な次元、人体の理想像の変化という美的な次元が交錯しあっているが、各国の事情によりさまざまなありようが可能となっていた。また、フランスでは1863年まで美術学校で女性裸体モデルが導入されないなど、現代に到るまで女性裸体モデルはさまざまなジェンダーを含めた問題をはらんでいる。
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