1、(1)糸崎の「佛舞」の楽曲は、打ち物に壱鼓の名残が感じられ、しかも、拍子や調子等から総合的に判断しても、これはすでに絶えて久しい、幻の「一曲」が糸崎の「佛舞」に往古には用いられていた可能性の高いことが判明した。 (2)楽曲の内の太鼓については、「行道」に先立って打たれる櫓太鼓の場合、それは「蘭陵工」のものと酷似しており、「二番太鼓の舞」では、「陵王乱声」の型を踏襲している。さらに、「三番太鼓の舞」は、「急曲」そのものの打ち方であること等が明らかになった。また、「二番太鼓の舞」と「三番太鼓の舞」の間に奉納される「念菩薩の舞」は、菩薩供養の「迦陵頻伽」との関わりが見出され、糸崎の「佛舞」にある、次の動作へと移行する際に使用される、「入り節(いりふし)」等が他の「佛舞」には見出せない、糸崎独自のものであること等も判明した。 2、前年度からの継続研究によって、全国に十三の「佛舞」伝承社寺のあることが判明したことを享けて、外地での探索並びに、中国の文献調査等による比較研究から、糸崎の「佛舞」の舞人の装束は、例えば、『碧鶏漫志』に記されるものに合致しており、しかも、『宋学士文集』に記される「佛舞」は、「楽曲を三度奏でること、「佛舞」の舞人は十人いること、そして夫々が手に蓮華などを持ち、行道的仕草をしていたこと」等は、糸崎の「佛舞」にのみ存する、「一番太鼓の舞」・「二番太鼓の舞」・「三番太鼓の舞」の三度の楽曲に合致するもので、舞人が十人ということも糸崎のみこれに適うものであり、さらに、蓮華を手に持つのも糸崎の念菩薩だけである。したがって、このことから糸崎の「佛舞」は、都(京)からの間接的な伝来ではなく、大陸からの直接伝播の可能性が極端に高いものであるということがより明確となった。
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