本研究はアメリカにおける女性と暴力の関わり万を検証しようとする試みでめる。19世紀アメリカでは、宗教心、道徳心の守護者として女らしさをうたうヴィクトリア朝的女性観が尊ばれた。それは男性の要請であるだけでなく、自分たちの存在意義を主張する女性たちの要請でもあった。したがって女と暴力というテーマが取り上げられる場合、その多くが女性を被害者として取り扱っている。しかしながら本当に暴力は男の専売特許なのだろうか。本研究では被害者ではなく、加害者の、つまり暴力をふるう側にたつ女に焦点をあてている。ただしその場合、暴力というのは必ずしも物理的な暴力行為を意味するわけではない。それが既存の社会慣習を、常識を打ち破るという比喩的な意味の暴力性をさすこともある。また読者の意表をつく筋書き、文章やことばといった作者が行使するテクニックとしての暴力性もあるだろう。そのようなさまざまなレベルの暴力性に目をとめながら、女性と暴力の関わり方を考察した。 ここで取り扱う研究対象は、おもに女性作家によって書かれたアメリカ文学であるが、全体としてはもう少し範囲を広げ、アメリカ演劇、映画、大衆演劇なども視野に治めている。また女性と暴力の関わりは時代の流れ、風潮とも無縁ではない。女性が示す暴力性に対する19世紀の社会と21世紀の社会が持つ許容度が、はなはだしく異なることはあきらかである。したがって時代を追って、その特徴を整理することもまた重要なことと考える。以上のようなプロセスをへることにより、女たちが暴力を受動的に受けるだけではなく、むしろある種の戦略の元に、能動的に希求していく様をあきらかにし、アメリカ文化におけるその意味を考察した。
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