研究概要 |
本年度は作家のテクストに即して具体的に群集という表象の機能を考察してみた。以下にその要点を記す。 限定された空間(都市空間)に居住する個々人が各自の活動を個別的に追求する過程において、その空間内の特定の場所(街路、広場)に集合体として出現する現象としての偶発的群集は、すでに、ルソーにおいて、「この広大なる世間という砂漠」(<<J'entre avec une secrete horreur dans ce vaste desert du monde. Ce chaos ne m'offre qu'une' solitude affreuse ou regne un morne silence.>>, Nouv. Hell., II, 14.)という表現に暗示されていた。ルソーにおいては、個々人の集塊として現象する群集の即物的な現前よりも、関係性の網目としての人間社会の「非人間化」すなわち「功利化」が問題とされているが、この表現はさらにシャトーブリアンに受け継がれ、「広大なる人の砂漠」(<<Je trouvai d'abord assez de plaisir dans cette vie obscure et independante. Inconnu, je me melais a la foule : vaste desert d'hommes!>>, Renee)と言い換えられ、明確に「群集」(foule)の同格表現となる。18世紀以降、資本主義の浸透と産業革命の漸次的進行によって出現しつつあった市場社会は、都市における群集形態において、伝統的共同体に固有のエートス(生活倫理)の解体という位相を最も徴候的に示すことになる。このような徴候を敏感に感知したのが、スイス人のルソーであり、ブルターニュ出身のシャトーブリアンであった。シャトーブリアンの例において、孤独を求める主人公ルネは、ルソーの登場人物サン=プルーとは異なり、都会の荒涼たる群集のうちに匿名の個人として埋もれることに、逆説的に、束の間の安らぎを覚える。この逆説は、生粋のパリ人士ボードレールの散文詩「群集」において、「群集に湯浴みすること」(<<Il n'est pas donne a chacun de prendre un bain de multitude : jouir de la foule est un art [...]>>, <<Les Foules>>, Le Spleen de Paris)として積極的に(反語を秘めつつ)顕揚されることになる。だが、ランボーの都市を主題とする散文詩において、主体と群集との緊張関係はもはや見られない。そこでは、住民は都市という現象の従属的な構成要素にすぎないかのようである(<<Ces millions de gens qui n'ont pas besoin de se connaitre [...]>>)。かくして群集という表象は、都市における、あるいは近代に対する主体の意識の歴史的変遷に関わる指標という一面をもちうることが確認される。
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