(1)ヘルツルが植民相チェンバレンから提供された東アフリカ計画をシオニスト機構に諮ったとき、猛烈な反対をしたのは、ワイツマンらのロシア勢である。ひたすらパレスチナにこだわる彼らのシオニズムは、ヘルツルを支持したザングウィルのパレスチナ復帰にこだわらない所謂領土主義シオニズムと大きな違いがある。この差は、ザングウィルがイギリス生まれのイギリス育ちで、イギリスに対する郷土意識が強かったのに対して、ワイツマンは郷土であるロシアのユダヤ人ゲットーに対してうそ寒い思いしか抱けなかったという原体験の相違にまでさかのぼる。しかし、二人のシオニズムの本質が植民主義であることに変わりはなく、仮にザングウィルの領土主義が勝利していたら、現在のようなパレスチナ問題の混迷はなかっただろうが、やがて芽生える東アフリカの民族主義にてこずったことだろう。(2)イギリスがパレスチナにおける「ユダヤ人の民族的郷土」を約束したバルフォー宣言を出すに至るには、イギリスに帰化したワイツマンの画策が大きく物を言ったが、キリスト教徒側で主導的な役割を果たしたのは、外相のバルフォーではなく、ロイドジョージ首相とその周辺にいたサイクス、アメリー、オームズビ=ゴアらの保守政治家たちである。とりわけロイドジョージが、ヨーロッパ大戦を勝ち抜くためだけでなくイギリス帝国を維持するために、陸軍首脳の首を切ってまでパレスチナ戦線・パレスチナ状況に政治的重要性を付与した結果である。すなわち、バルフォー宣言(1917)も、イギリス軍の一部としてのユダヤ人部隊の設置(1917)も、ロシア革命後のロシア対策ならびに国内で戦争に協力しないロシア系移民対策として、ロシア、アメリカ、イギリスのユダヤ人を戦争継続の方向へと引っ張り協力させようとして彼が打った政治的な賭けであった。
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