一二九〇年にエドワードー世の勅令によって追放されたユダヤ人が、再入国を許されたのは、一六五六年、クロムウェル政権の黙認政策による。この一六五六年は、千年王国論に熱狂したピューリタン達が、キリストの再臨する年、ユダヤ人がキリスト教に改宗してパレスチナに復帰する年として待望した年でもあった.その後、千年王国論的復帰論はユニテリアン派の牧師プリーストリーや、万有引力の法則を発見した科学者ニュートンにも受け継がれるが、福音主義者のシャフツベリーに到って、宗教色を内部に秘めた政治論として成熟し、やがてパレスチナにユダヤ人国家を樹立するという思想にまで発展する。ミットフォード案(一八四五)がそれである。彼はパレスチナの少数派であるユダヤ人を多数派にするためにアラブ人の強制移送まで考えた。イギリスは一九一七年にバルフォー宣言によって、パレスチナに対するシオニストの領土的野心を公式に認知するが、宣言は右のような文化の伝統の論理的な帰結であると言っても過言ではない。その一方、イギリスのユダヤ人たちは、バル・コクバの叛乱の失敗以後、ラビ的ユダヤ教の正統派の考えに従って、ユダヤ人が民族としてパレスチナに復帰して建国するなど思っても見なかった。いや、彼らはユダヤ人を民族とは見なさず、ユダヤ教を信じるに過ぎないイギリス国民であると自己規定して、ユダヤ人の政治的平等を勝ち得ようと努力し、事実また勝ち取って行った。イギリスのキリスト教徒が熱烈な親シオニストであったのと対照的に、イギリス・ユダヤ人はシオニズムに冷淡だったのである。
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