今回はその研究実績の一部を仏語論文で3月発行の学部の紀要に掲載する。今回の対象は第四巻「ソドムとゴモラ」である。「心情の間歌」は『忘却」の対極にあるテーマである。バルベックの先年泊まった同じ部屋のなかで、主人公の<私>は、亡くなった祖母は日頃は忘却したままの存在であったが、突然、その存在の蘇りを無意志的記憶の作用で経験する。同時に祖母を愛していた「過去の私の自我」も蘇ってくる。<私>の祖母にたいする愛情の絆の異常なつよさをあらわす証左であろう。第六巻では、ヴェネチア滞在申の<私>は死んだはずの恋人アルベルチーヌから電報を受け取るが、自らの裡で彼女への無関心が完成し、また彼女を愛していた昔の自我も蘇生しない。アルベルチーヌは結局「忘却」の一般的な法則に従う存在でしかなかった。ここで「忘却』論を展開する直前に、話者は<私>とアルベルチーヌにおこる現象とはまさにまったく逆の現象が祖母との間に以前起こったと叙述する。「心情の間」が表象するこの部分だけが例外的に『失われた時に』において、時間と習慣の破壊作用から免れた稀有な場面である。「心情の間歇」の祖母はプルーストの母への思いが結晶化したものである。 今回は母の死後のプルーストの反応を書簡(05年から08年まで)調べ、「私は母の人生を毒殺しました」という文を中心に、母への自己処罰の感情がどのようにして生起したかを、伝記事実のみならず、プルーストの意識下にあったであろう父親・弟へのアンビアレントな感情や、自身の性的嗜好と母との関係から調査し、一種の仮説を提出した。まだ1908年の「カルネ」やそれ以降の草稿帖での記述から、「心情の間歇」にかんして実際の母から祖母に変貌していった過程を探究した。
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