バロック詩人ジャンバッティスタ・マリーノの『アドーネ』(1623年)の分析をさらに進めた。この作品においては、人間の5つの感覚をとおした快楽が大きな主題になっているが(聴覚について歌った第7歌の「ナイチンゲールの歌」のくだりや第8歌の「触覚の庭」など)、第10歌で望遠鏡を「遠くにあっても、対象を非常に拡大して、誰の感覚(senso)にでも近づける細工」と位置づけているとおり、「感覚」に奉仕する新器具の発明者としてのガリレオを賛美してあることが分かる。また、この第10歌では、ガリレオが第2のコンロブスとして、天空の新事実の発見者という位置づけもなされている。ここには、海の航海者=地理的征服者コロンブスと天空の航海者=自然哲学的征服者がリレオという2人のイタリア人が新時代の象徴として描かれており、ペトラルカの『カンツォニエーレ』所収「わがイタリアよ、たとえ語るのがむだでも」からレオパルディの『カンティ』所収「アンジェロ・マイヘ」に到るイタリアの偉人たちを引き合いに出しながらイタリアを憂うる詩のバロック的変奏をなしてあるとも考えられる。またマリー・ド・メディシスの招聘によってパリの宮廷に登ったマリーノがこの作品をフランスで発表したことを考え合わせると、新旧論争の前段階の重要な作品と位置づけることも可能であろう。ガリレオの存在がいかに国境や領域を越えた「事件」であったかの証左と言える。 「感覚」という語が、解釈はその使用者にとって異なっていても、17世紀前半のイタリア文化理解にとって重要であることを確認できたことも大きな成果である。詩人マリーノにとって感覚とは快楽に奉仕するものであったが、ガリレオにとって感覚的経験は自然哲学の真理探究に欠かせないものであった。またカンパネッラにとっては自然の魔術的解釈に必要なのが感覚という概念であった。
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