1613年の「カステッリ宛の書簡」のなかでガリレオは聖書と自然学の関係を整理してコペルニクス説のほうがアリストテレス・プトレマイオス体系よりも優位にあることを証明したが、その論理の攻撃性もあって、彼は宗教的な論争に巻き込まれてしまう。その反省から、『偽金鑑識官』から『世界の二大体系についての対話』へと執筆活動が展開していくにつれ、彼の説得の技術は、論理的に敵を打ち負かすだけでなく、「たとえ話」をも導入して、読者をより引き込むものへと進化していった。 17世紀の前半には「感覚」を重要視する文化的風土があった。たとえば「感覚に基づく経験と必然的な論証」を自然学の研究手段と考えるガリレオ、あらゆる事物には感覚が備わっているという視点から自然を説明する哲学者カンパネッラ、そして五感を通した快楽を主題としたバロック詩人マリーノである。 『アドーネ』のなかでマリーノは、望遠鏡を「遠くにあっても、対象を非常に拡大して、誰の感覚にでも近づける道具」と位置づけているとおり、「感覚」に奉仕する新器具の発明者としてのガリレオを賛美した。また、海の航海者=地理的征服者コロンブスと天空の航海者=自然哲学的征服者ガリレオという2人のイタリア人が新時代の象徴として描かれており、ペトラルカの『カンツォニエーレ』所収「わがイタリアよ、たとえ語るのがむだでも」からレオパルディの『カンティ』所収「アンジェロ・マイヘ」に到るイタリアの偉人たちを引き合いに出しながらイタリアを憂える詩のバロック的変奏をなしているとも考えられる。またマリー・ド・メディシスの招聰によってパリの宮廷に登ったマリーノがこの作品をフランスで発表したことを考え合わせると、新旧論争の前段階の重要な作品と位置づけることも可能であろう。ガリレオの存在がいかに国境や領域を越えた「事件」であったかの証左と言える。
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