今年度は、パーリ語仏典の「スッタニパータ」および「ダンマパダ」とそれらを支謙が漢訳した「義足経」および「法句経」に焦点を当てて研究を進め、その成果を論文として発表した。 「法句経」は原典の異なる3つの部分から成る。支謙は当初、700偈葛本の存在を知っていたが、その漢訳には満足できなかった。その後224年に維本500偈(ダンマパダ)がもたらされた。支謙は同行の竺将焔に漢訳を依頼した。この時に竺将焔が訳した各節は6言句が主であったであろう。そして、この時期に支謙がやはり6言句を主流とする『義足経』を訳したものと推測される。この時には、支謙は老子にはほとんど関心を示していない。やがて、支謙は竺将焔が完成させた訳を受け取る。『義足経』の訳もこの頃には完成していたであろう。支謙の心中には、竺のものも、自身のものも、どこか直訳調で、「文雅」に欠けるとの思い、仏典を漢語に移すことに対する違和感が存在した。 やがて、王弼の老子注が世に出で、それは瞬く間に江南・呉の地にも伝わり、支謙はこの王弼注から思想的な衝撃を受けた。その衝撃の印象も醒めやらぬうちに、支謙は竺将焔訳『法句経』の全面的な改訳に取りかかった。そこでは、五言句が主となり、老子言語の影響が大きく現れている。このことは、後の中国仏教を大きく規定していくのではないか、と私は考える。老子の言語に頼らずに、『義足経』のように原典に即した形での仏典漢訳を続ける道はなかったのであろうか。一方また、王弼が世に伝えた老子像は、老子のテキストを遡源して考えた時には、また多くのものを切り捨てている。究明すべき問題はまだ多く残っている。 今回は、パーリ語原典からの訳経に焦点をしぼったが、今後『大明度経』や『維摩経』『無量寿経』など、支謙の初期大乗経典の訳業にも対象を拡げて、さらに考察を深めてゆきたい。
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