(1)1727年の北京会議においてロシア側代表ヴラジスラヴィッチは、国境交渉の参考として清側にホマンの地図帳を提供した。その中には1723年ごろに作製されたロシア一般図が含まれており、この地図がその後に作られる清朝の官製ユーラシア地図に強い影響を与えることになった。たとえば『乾隆十三排図』では、中国とその周辺は『皇輿全覧図』に従い、ロシアなど『皇輿全覧図』がカバーしない外側の地域は、ホマンのロシア一般図に拠った。なお『乾隆十三排図』は、その前にできた『雍正十排皇輿図』の構図をそのまま模倣したものとみられる。 (2)ホマンの地図帳に含まれるカムチャダリア(カムチャツカ)・カスピ海地図とロシア一般図では、幻の大地エゾはカムチャツカの南端であり、マツマイ(松前)はその南の小島であるとされていた。デュアルド『中国誌』によって『皇輿全覧図』とベーリングの地図が紹介されると、東アジアの海岸線が明確になって、エゾ=カムチャツカ説は否定された。それからはエヅをめぐって北海道とサハリン南部を一島と考える説と、それを二つに分ける考えが対立したが、前者がしだいに優勢となった。マツマイがエゾとは分離した小島であるという考えは、その間両方の説で生き残った。こうしたエゾ論争に決着をつけたのは、18世紀末に行なわれたラペルーズとブロートンの航海であった。 (3)スシエとゴービルなどの著作を通して、『皇輿全覧図』を作製する一環で清が行なったチベットと中央アジア調査について明らかにした。しかしまだ調査隊の人名を特定できるまでには至っていない。
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