(1)清朝時代に個人が作製した世界地図を研究して、その系統と歴史的な意義を考えた。それらの世界地図は一枚ものの地図として刊行されることは少なく、書籍の中に掲載されているものがほとんどである。ロシアの地図から影響を受けたものとしては、『異域録』「異域録輿図」や『雍正十排皇輿図』、『乾隆内府輿図』と、後者から出た『大清一統図』などが存在する。これに対して『海国聞見録』「四海総図」は『皇輿全覧図』ができる以前のヨーロッパ製の地図を模倣しており、『圜天図説』「地球正面全図」は『皇輿全覧図』がヨーロッパに伝わった後に作製されたヨーロッパ製の地図を模倣している。清朝前期に作製された世界地図は、全部で10点前後にのぼるが、それらの地図はいずれも中国社会に確かな痕跡を残すことはできなかった。 (2)18世紀ロシアにおける地図学の発展について研究した。とくにエゾ論争に一石を投じた地図二つの起源と西ヨーロッパ社会に及ぼした影響を明らかにした。すなわちカムチャツカ=エゾ説を初めて主張したホマンの地図は、ロシアのピョートル一世がホマンに送ったストラレンベルグの原図がそのもとになった。その後10年間にホマンの地図を模倣するものが相継いで現れ、カムチャツカ=エゾ説は西ヨーロッパを席巻した。しかし『皇輿全覧図』が現れた後、それは一挙に没落した。それに代わって隆盛となったのは、ロシア人キリロフが考えるサハリン南部と北海道を結合させる巨大なエゾであった。キリロフの説も西ヨーロッパ社会に受け入れられて、ラペルーズとブロートンが実地調査を行なう18世紀末まで権威をもっていた。
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