1 1727年の北京会議においてロシア側代表ヴラジスラヴィッチは、国境交渉の参考として清側にホマンの地図帳を提供した。その中には1723年頃に作製されたロシア一般図とカムチャツカ・カスピ海図が含まれており、二つの地図はその後に作られた清朝の官製ユーラシア地図に強い影響を残すことになった。たとえば『乾隆十三排図』では、中国本土とその周辺は『皇輿全覧図』に従い、ロシアなど『皇輿全覧図』がカバーしない外側の地域は、ホマンのロシア一般図を模倣した。このような清の官製ユーラシア地図は、『雍正十排皇輿図』に起源をもっており、そのことは北京会議を指揮していた恰親王允祥の考えによるものである。 2 18世紀のヨーロッパにおけるエゾ論争(現在の北海道がいかなる形状をして、いかなる位置に存在するのかをめぐる論争)について研究を行なった。18世紀初めにロシアで、カムチャツカ半島の南部がエゾであるという説が起こり、それが西ヨーロッパに伝わり、1720年代から10年間その説がヨーロッパを席巻した。しかしデュアルド『中国誌』(1735年刊)が『皇輿全覧図』とベーリングの地図を同時に公開して、西太平洋北部の海岸線が明らかになると、カムチャツカ=エゾ説は一挙に没落した。それからそれに代わって支配的となった説は、サハリン南部と北海道を結合させる巨大なエゾを考えるものであった。それが約50年間続いて、18世紀末になりラペルーズとブロートンという二人の航海者が、それぞれ独自にこの海域を実地調査して、北海道とサハリンを発見しエゾ論争に終止符を打ったのである。
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