近世の封建経済は、全国諸藩の領国経済と城下町商業が三都の中央市場と密接不可分に結びつき、それなくしては成り立ち得ない構造を有していた。そうした全体構造の中にあって、地域と地域を結ぶ経済交流も着実な展開を見せていく。北日本社会にあってその核となったのが蝦夷地である。それは、地域の産業を支えた物流であり、また労働力維持のための生活消費物資の供給という二つの側面から展開した。蝦夷地の最も主要な産業となった漁業においては漁業を支える様々な道具類とその原料が北日本社会から供給された。漁獲物の塩付けに塩は欠かせなかったし、稲作のない蝦夷地においては藁、俵、筵、縄さえも島外に頼らねばならなかった。魚肥生産用の大釜など、各種鉄類は南部藩から供給されている。その他、細々とした道具類の大半は津軽海峡を囲む地域社会の中で供給されたのであった。そして何よりも、その産業を支えた労働力がアイヌの人々だけでなく、定住和人であり、北日本社会からの出稼ぎ和人であった。米・酒・塩・味噌・醤油などの食料品や衣料品、作業着など、生活必需品のほとんどが島外から供給され、北日本で賄える物もあれば、はるばる上方市場で調達され廻漕された物資もあった。それ故に、北日本沿岸の湊町では、その町での消費分以上の物資が蝦夷地市場の需要を想定して売買の対象となって取引された。またその一方で、身欠き鯡などの蝦夷地産物が、上方への廻漕途中で売却されることもあり、買い受けた廻船問屋はそれを他の廻船に転売している。こうした経済交流を基に、地域と地域をつなぐ極地間の交流が重層的に展開していたのである。日本海側ではおよそ越中以北から蝦夷地に向かう小船の交易が活発に展開し、津軽海峡を挟む地域でそれは一層活発となった。そしたまた、太平洋側においても蝦夷地との地域間交流について、これまで以上に掘り下げて検討すべき必要性が明らかとなった。
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