1.中世文書が近世・近代にどのように伝来をしたのかを検討することになし、中世文書の伝来を論ずることはできないという問題意識のもとに、「米沢上杉家之藩山吉家伝記之写」に見られる山吉家による寛永16年(1639)、寛文10年(1670)、元禄4年(1691)、元禄9年(1696)の4度の家蔵文書差出しの記事を検討し、以下のことを明らかにした。 寛永16年の差出しは米沢2代藩主上杉定勝作成の「古筆案」作成と対応すること、寛文10年の差出しは竹俣義秀の古案改帳作成に対応すること、元禄4年の差出しは米沢藩編集の「謙信公御書」等の編纂物に対応すること、さらに、元禄9年の差出しも米沢藩の「謙信公御書」等の編纂物に対応することが明らかになった。 2.室町・戦国・近世初期の上杉氏を研究する基礎的研究として、米沢市立図書館所蔵 『上杉侯家士分限簿』、米沢市立図書館所蔵『会津御在城分限帳』、上杉博物館所蔵「直江支配長井郡分限帳」の翻刻をおこない、『上杉家分限帳-越後・会津・米沢-』(新潟大学大域プロジェクト研究資料叢刊V)として公表した。この翻刻によって、上杉氏が本拠を越後・会津・米沢に本拠を移動させるにもかかわらず、現在の自治体が、新潟県・福島県・山形県の3県にまたがることから、上杉氏全体をとらえようとする研究が不十分であった研究状況を打ち破る状況を作り出すきっかけを作ることができた。 また、翻刻過程で、米沢市立図書館所蔵『上杉侯家士分限簿』は、中表紙に「越後ニテ、慶長二年十月十七日四ヶ一分限帳上納ノ一紙」とあり、末尾にも「越後村数、都合弐千弐百五拾四ヶ村、慶長弐年十月十七日改」と記されるように、文禄3年に作成された定納員数目録を慶長2年10月17日に改められたものであると考えられること、『文禄三年定納員数目録』は、文禄3年に作成された定納員数目録をそのまま書写しているのに対して、『上杉侯家士分限簿』は、慶長2年10月に改訂された定納員数目録を書写したものであることを明らかにした。従来、文禄3年作成の定納員数目録しか知られていなかったが、慶長2年10月作成の定納員数目録の存在を明らかにしたことは大きな成果である。
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