(1)上杉氏に関する1333年頃〜15世紀前半までの日記の記事を収集し、それを編年順に一覧表にし、科研報告書に掲載し、公表した。このことにより、従来、八条上杉氏など京都の上杉氏と越後の上杉氏を切り離して考えようとする研究状況を打ち破るための史料的基礎を築くことができた。 (2)米沢市上杉博物館所蔵『越後分限帳』『寛永分限帳』の翻刻をおこない、さらに慶長3年(1598)から上杉景勝が死去する元和9年(1623)3月まで、慶長3年以降の上杉景勝および上杉家中の者が発給・受給した文書等の目録を作成し、科研報告書に掲載し、公表した。この翻刻・文書目録によって、上杉氏が本拠を越後・会津・米沢と移動させるにもかかわらず、現在の自治体が新潟県・福島県・山形県の3県にまたがることから、上杉氏全体をとらえようとすることが不十分であった研究状況を打ち破る史料的基礎を作り上げることができた。 (3)軍学者山鹿素行の自筆年譜及び加賀藩軍学者有沢永貞の自筆年譜の検討により、山鹿素行は幕府の絵師狩野永真安信に武者の装束・武器についての相談に応じていたこと、また、有沢永貞は絵師を使って絵図を写させていたこと、柳ヶ瀬・姉川・関ヶ原・長久手の四戦屏風を製作していたことを明らかにした。すでに、和歌山県立博物館本川中島合戦図屏風図は軍学者宇佐美氏の関与があったこと、岩国美術館本川中島合戦図屏風は軍学者の作品『甲陽軍鑑』を絵画化したものであることをあきらかにされているが、軍学者が合戦図・武者絵に具体的にどのようにかかわっていたのかについては明確ではなかった。本研究により、軍学者は合戦図・武者絵の製作に直接関わっていたことを明らかにし、今後の軍学者と戦国期の合戦図・武者絵研究についての文献史的基礎を築いた。
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