研究の結果えられた新たな知見は、以下の通りである。 (1)室町初期上杉氏関連日記記事一覧表を作成し公表した。これにより従来、八条上杉氏など京都の上杉氏と越後の上杉氏を切り離して考えようとする研究状況を打ち破るための史料的基礎を築くことができた。 (2)『上杉侯家士分限簿』、『越後分限帳』、『会津御在城分限帳』、『直江支配長井郡分限帳』、『寛永分限帳』の翻刻をおこない、さらに慶長3年(1598)以降上杉関連文書目録を作成した。この翻刻・文書目録によって、上杉氏が本拠を越後・会津・米沢と移動させるにもかかわらず、現在の自治体が新潟県・福島県・山形県の3県にまたがることから、上杉氏全体をとらえようとすることが不十分であった研究状況を打ち破る史料的基礎を作り上げることができた。 (3)『上杉侯家士分限簿』は慶長2年10月に改訂された定納員数目録を書写したものであることを明らかにした。これにより、はじめて慶長2年10月作成の定納員数目録の存在を明らかにすることができた。 (4)米沢藩士山吉氏の寛永16年の差出しは米沢2代藩主上杉定勝作成の「古筆案」作成と対応すること、寛文10年の差出しは竹俣義秀の古案改帳作成に対応すること、元禄4年の差出しは米沢藩編集の「謙信公御書」等の編纂物に対応すること、さらに、元禄9年の差出しも米沢藩の「謙信公御書」等の編纂物に対応することを明らかにした。 (5)軍学者山鹿素行は幕府の絵師狩野永真安信に武者の装束・武器についての相談に応じていたこと、また、軍学者有沢永貞は絵師を使って絵図を写させていたこと、柳ヶ瀬・姉川・関ヶ原・長久手の四戦屏風を製作していたことを明らかにした。本研究により、軍学者は合戦図・武者絵の製作に直接関わっていたことを明らかにし、今後の軍学者と戦国期の合戦図・武者絵研究についての文献史的基礎を築いた。
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