(1)『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』および『類聚符宣抄』『別聚符宣抄』を対象にして、殿舎や場に関する記載について悉皆調査を行い、表にまとめた。 (2)『日本後紀』弘仁9年(818)4月条の逸文を発見したことにより、それまで寝殿・南殿といわれていた内裏の殿舎の名称が、仁寿殿・紫宸殿と改称されたことが明らかとなった。これにより、儀式の唐風化として名高い弘仁9年に、内裏における儀式の整備が進んだことがいっそうはっきりした。 (3)光仁朝以降の上宣制の成立原因として、中国の宙官が皇帝の意向を宰相に伝えていた文書の影響があると考えた。また、上宣の輪番制は、藤原仲麻呂の専権の轍を踏まないためにとられるようになったもので、中国で特定の宰相の専権を排除するために執筆の輪番制がとられたことに影響されていると推定した。この点からも、中国の政治堂会議が日本の太政官会議に影響を与えたことが再確認できた。 (4)作成した表に基づき、陣定が行われる左右近衛陣の使用方法について考察した。最初、宴など天皇が臣下との交流を深める場として用いられていたが、郡司を任命するに際しての議場として使用されるようになった。ところが、元慶2年(878)に出羽国の俘囚の乱が起きた際、公卿が飛駅の使者をこの場1に呼んで尋問したことを画期として、以後、参考人への諮問する場および公卿が議定する場となった。 したがって、陣定の直接の起源は、この反乱の対応に求められると考えるべきである。 (5)平安京の造営の賞が延暦13年10月28日に下されたことを明らかにし、対象となった人物の分析から公卿を含む大規模な叙位・任官であったことを解明した。また、「造京式」が桓武天皇の命により、作成されたことを明らかにし、桓武が京の造営に強い関心をもっていたことを論証した。以上から、長岡京に比べて評価の低かった平安京の造営は、従来考えられていたより大規模であり、もっと積極的に評価すべきであると結論づけた。
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