「橋浦泰雄関係文書」の中で、地方の郷土史家から寄せられた書簡の整理とそのデータ・ベース化に主眼を置いた。これによって昭和10年代における「民間伝承の会」の組織化については、ほぼ網羅されたといってよい。その最大の成果が昭和18年から20年に書けて計画・実施された「柳田国男先生古希記念事業」である。この事業はそれまでに蓄積された地方の郷土史家はもとより、同時代にあって台湾、北京、満州と、東アジア規模で散在した民俗(族)学者を媒介に展開され、戦時下であるにもかかわらず、経験的な思考を重視した柳田民俗学に賛同する学界人が参集した点で、稀有の事態だった。この実施状況については、国内については「戦時下の「モヤヒ」-柳田国男先生古希記念會に見る-」(『人文学報』143京都大学人文科学研究所2004年刊行は2005年12月)、国外については「柳田民俗学の東アジア的展開」として『岩波講座「帝国」日本の学知』第6巻2006年4月刊行予定)にまとめた。 また、それら書簡の傾向法則として、「民間伝承の会」事務局、ならびに橋浦泰雄との間に絶信という事態がきわめて少ないこと、長期にわたる文通が戦前・戦中・戦後続いていたことが明らかとなった。このことは自ずから柳田民俗学の持つ「不易性」を照射している。通常、柳田民俗学はこうした地方研究者を従属的な立場に置くことで、「一将功成万骨枯」の学と批判されることが多い。しかし、戦時下において経験的思考領域を守ったこと、なおかつそれを支えた組織網が相互の信頼に基づくものだった点において、こうした先行研究は見直される時期にさしかかってきているといえよう。
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