昨年度、北東アジアと北陸道の関係を渤海使・遣渤海使・渤海国旧跡遺産のデータを中心に検討し参考文献の収集を進めたのを受けて、本年度は国外研究者による「渤海国研究論文リスト」を作成するとともに、日本列島沿岸域の海上交通の地域的拠点である津(湊)について、渤海使の往来を中心に北陸地域とくに越前国加賀郡(現金沢港周辺地域)の津周辺社会に活動する家族の生産・生活の特質を究明した。そこでは金沢市畝田・寺中遺跡出土の「天平勝宝四年」銘出挙木簡の検討を通じて、当該地域に津の管理出先機関(郡末端機構と推定)とその運営に深く関与した郷レベル住民が春・夏「出挙」を軸として相互依存関係を形成していたことを指摘した(『東アジアの交流と地域諸相』所収、思文閣出版、2006年)が、それは津や駅と隣接する村々において行政機関や物資の集積を可能にする倉庫などの施設とともに、それを支える人的配置の必要なことを示している。日本海沿岸域の各地域には津・駅家を拠点にして多様な交通ネットワークが形成されていたとみられる。次いで、北陸道地域の歴史的前提をなした「高志国」の歴史的性格について、越後・越中・越前国成立以前の段階から6〜7世紀にかけて前方後円墳分布と北陸地域の国造分布との関係を比較し、高志国の名称起源となったのは令制下の越前国足羽郡または越後国古志郡に比定される「高志国造」の「高志国」ではなく、最北部に位置する「高志深江国造」の支配した「高志」地域名であることを推定した。それは高志国の形成は大和政権の中枢に近い令制越前国の地から漸次支配領域を北進させたとする定説に疑問を提示し、北方の蝦夷勢力との接点に勢力をもつ在地勢力を「高志深江国造」に任命したことにより、中央政権と高志深江国をつなぐ交通ネットワークは国造制の段階からすでに整備が進み、その間の臨海部拠点は津の機能を具有していたと理解した(「高志国の成立」『北東アジアの交流と経済・社会』所収、桂書房)。なお、近年発見の相次ぐ各津と周辺域の遺跡データの編集には今しばらくの時間を要する。
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