研究概要 |
今年度は、4回にわたって内外において史料調査を進めた。まず7〜8月にはオランダのハーグ国立文書館においてオランダ東インド会社史料の中において、主に「到着文書」を中心に調査し、日本輸出商品の商況についてアジア各商館からの報告を収集することに努めた。また9月と12月には、長崎において県立図書館と市立博物館所蔵の長崎奉行関係史料を調査し、撮影した。特に12月には、6,000枚ほどの史料を撮影し、これにより長崎における長崎奉行史料が把握できた。 研究については、まず近世初期の長崎奉行制度の創設から、1630年代までの変化を考察した。これは、来年刊行予定である「長崎奉行の研究」の序論にあたる。この初期の長崎奉行の職掌は、主にキリシタン対策と、長崎貿易の管理であった。しかし竹中釆女正重義が長崎奉行在任中に様々な不正を行い、これが暴露され竹中が切腹後、長崎奉行制度は改変がなされた。この状況について明らかにするとともに、鎖国完成までの長崎奉行制度についても整理した。 また今年度は、特に17世紀後期の長崎奉行制度の変遷についての研究に重点を置いた。幕府は、1680年代から長崎貿易に積極的に介入するようになった。そして1685年には年間貿易額を制限した御定高制度が創設された。この創設に指導的な役割を果たしたのは長崎奉行川口源左衛門であった。川口は、その後も長崎における唐人支配を強化し、唐人屋敷の設立や年間来航船数の制限などを実行していった。川口はこれらの功績により五百石の加増を受けたり、1689年には従五位下摂津守に叙爵された。このような事例は、それ以前の長崎奉行にはなく、いずれも川口が初見である。その後長崎奉行は全て従五位下に叙任されるようになった。そして1699年には、それまで江戸城において長崎奉行は芙蓉の間の末席にされていたが、大躍進して京都町奉行よりも上席となり、この席順は幕末まで維持された。しかもこの貞享〜元禄期にかけては長崎奉行の人員も、従来の2人制から、3人(1686年)、そして4人(1699年)に増員された。このように、この時期に長崎奉行制度に大きな変動があり、いかにこの時代に長崎奉行、ひいては長崎貿易が幕閣内で見直されたかを物語るものである。また、本研究では、この背景には幕府財政の逼迫が大きく絡んでいることを示唆した。すなわち、幕府は長崎貿易からの利潤に注目するようになり、それを吸収することにより歳入増加を目指したと考えられるのである。以上、今年度はオランダと長崎・金沢において史料調査を行うとともに、17世紀の長崎奉行制度の変遷とその背景に関する研究を行った。
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