京都五山の代表的寺院である天竜寺・相国寺および関係塔頭寺院の古文書調査を行い撮影し、目録を作成しその集成を図った。天竜寺文書については、これまで京都府教育委員会文化財保護課による目録があったが、現存の正文のみの目録であり、天龍寺文書中に含まれる重書案の細目録はこれまで無かった。重書案は内容も豊富で、正文が失われたものも多く、多くの貴重な史料が含まれている。さらに、寺外に流出していた重書案の調査も行い、特に、尼崎市教育委員会所蔵本を中心に研究をおこなった。本研究においては、重書案全体の内容を明らかにし、天竜寺関係文書全体の編年目録を作成して、データーベース化を行い、その全容を把握できるようにした。 重書案は、古文書学的に見ても貴重なもので、正文に準じて日常の業務に使用するため作成されたもので、前近代における文書管理の在り方としても注目される。足利将軍や管領による重書案の保障文言は、幕府と関係の深い五山禅院ならではの特色である。 京都五山の古文書は度重なる戦火の結果、現存文書の数は、顕密系寺院の所蔵文書に比べて少ないが、寺社勢力のなかでも五山禅宗寺院の規模や財政力は大きなものであり、こうした古文書の体系的な在り方を解明することにより、従来十分考察されてきていない、五山禅宗の社会的存在の大きさを解明することができるのである。 相国寺文書については、本坊、付属施設である承天閣美術館、光源院など塔頭寺院の調査を行ったが、最盛期、室町時代の古文書の多くは失われている。しかし、儀式関係の記録では葬礼関係史料、法会の回向集など、室町時代における五山禅宗の仏事法会を解明する基本史料を調査した。 さらに、戦国時代から江戸時代にかけての史料を新たに採訪し、特に住持職の任命状である公帖などを整理し目録化した。当寺の住持であり、豊臣秀吉、徳川家康のブレーンでもあった西笑承党の発給文書案については、別途、共同研究の形で公刊した。
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