本研究は、三省交界地域など、行政の区画内であっても現実に王朝政治が実効支配していない地域を「盗区」とし、これを王朝が実効支配する「政区」を対比させることから研究を開始し、宋朝(960-1278)をモデルとしつつ、申国王朝の政治の境界を考察することを目的として開始された。この用語に着目した過程に唐立宗の研究(2002)があることは言うまでもない。研究期間の中で、台湾中央研究院IAHAでのパネル主宰(2004.12)、共催として「宋代法文化研討会 in 台北」の開催など、約7回の国際会議等の主・共催、ウェッブサイト設置によるインタラクティヴな情報交換、ISBNを取得し、研究代表者や研究協力者の成果を世に問うDiscussion Paper Seriesの発刊などを通じ、以下の事実を明らかにすることが出来た。すなわち、前近代史研究における国家という枠組みの扱いに慎重にならざるを得ない今日、例えば唐宋変革といったものを、唐朝と宋朝という中国国家として同等である二つの王朝の間の変化として、捉えていいものかが問われる。中央ユーラシアと密接な関係を持つ反面・江南支配が弱かった唐と、江南の経済力に基盤を置き、長江流域を文化・思想の中心とし、南海交易さえも活発に行った宋という政治体制・文化を、同じテーブルにおいて比較することはできない。では宋朝とはいかなる政治勢力であり得たかと言えば、江南を決して勢力基盤としなかった唐の制度(北魏以来の人口稀少経済を基盤とした人民動員体制)を法制基盤として残しつつ、江南・特に南宋においては江西、湖南、福建、さらには浙江や江東の周縁部といったフロンティアに生起する様々な社会問題・財政問題に対処するにあたり、制度・法制を重視した政府であった、と結論づけることができる。なお、南宋安定期(高宗中期より末期まで)江西全体・湖南の洞庭湖のコア相当程度実効支配していたが、吉・袁州から湖南南部、ことに湖北西部〜四川東部・嶺南への宋朝の影響力は、終始相当弱かった。
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