本研究の課題は清朝の中央官制について、内閣・翰林院・都察院を主たる素材として、これら三つの中央行政機関を中心とした政治現象がいかなる主体によって、いかなる政治的資源に基づき、いかなる過程によって導き出されるのかということを明らかにし、清朝の政治過程における各機関の役割およびその機能を相互関連的に分析することである。 本年度の具体的研究実績としては、「清代都察院の政治的機能について-雍正〜道光期における科道官の政策提案事例を中心として-」を熊本大学教育学部紀要・人文科学に投稿し、掲載された(西村嘉史との共著)。前年度までの残された課題としての都察院の研究を具体的成果として発表したものであり、『清實録』などの史料を網羅的に調査することによって、政策提案事例の数値化をはかり、その結果をもとに、時代ごとの都察院の政治的機能のあり方を検討した。結果として、清代全盛期とされる雍正〜乾隆期には政策提案は乾隆初期の例外を除いて活発に行われず、清朝の斜陽が始まったとされる嘉慶期以降に逆に科道官の政策提言件数が飛躍的に増大していることが判明した。 このことについては、以下のように結論づけた。雍正〜乾隆期は清朝政権の求心性が高い時期であり、ことさらに政治を全面に押し出す必要がなかった。その背景には、経済が好況状態にあり、全体が経済的に豊かになるなかで階層を問わず富が応分に配分され、そのこと自体が政権の求心性を支えた.「地大物博」の中華の「盛世」という認識は、清朝の統合のシンボルとなりえた。乾隆末年以降に官僚の腐敗として非難の対象になる陋規などの「非正規」収入・餽送、さらには賄賂でさえも、経済の好況の中では、ある程度社会の適正な富の再分配機能を果たしていた.このような中、科道官の発言は単発的に有意であることはまま見られたが、先述の経済状況を背景とした統治権力の自信の前に、大きな政治勢力となることはなかった。しかし、嘉慶期以降の不況下に社会全体の富が縮小してくると、官僚の不正や既得権益による富の偏在が、社会の不安定要因となり、現に清朝の求心性が低下してくる。そのような中でとった手段の一つが、「民意」をくみあげる、という政治的姿勢であった。「民意」を根拠とする科道官の提案をより多く受け入れそれを検討するということを、皇帝が「民意」をくみ取っているということに位置づけ、それを清朝の政治統合のシンボルとしたのである。 本年度までで、課題である内閣・翰林院・都察院の基礎的研究にすべて端緒をつけたので、来年度はこれらを総括する研究に着手したい。
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