研究概要 |
清代の黒龍江地区(現在の内モンゴル自治区フルンボイル市を含む)においては,17世紀中葉から18世紀中葉にかけて,大規模な住民構成の再編が見られた。その主な原因は,清朝が諸々の民族集団を八旗制に組み込んだことである。清朝は,八旗に組み込んだ人々を,政策的な必要に応じて適宜移動させたので,諸集団の分布はそれによって大きく変動した。また,八旗は「民族」別編制を基本としており,その基幹組織であるニル(niru)は,ほとんどの場合,特定のエスニックな属性を帯びた集団(と清朝が認定したもの)を基礎として編成され,「民族」別の呼称を冠せられた。つまり,八旗制の施行は,国家による「民族」区分という意味をも有していたのである。 清朝によって作られたこうした枠組みは,現在の諸民族集団の分類,分布,エスニシティ等にも,多分に影響を与えていると予想される。そのことを検証するために,本研究では,まず清代の櫨案(公文書)史料等に基づいて,諸集団が八旗に組み込まれ,黒龍江の各地に配置された時期の具体的状況をひととおり明らかにした。一方,平成16年度にはフルンボイル地区,平成17年度には徽江流域において,聞き取りを主とする調査を実施し,各民族集団の現況と,近い過去における再編・変容の過程を跡づけ,17〜18世紀の状況と比較した。その結果,八旗編入時に確定した「民族」区分と,八旗制下での行政・地理上の区分の双方が,いわば縦糸と横糸として,現在に至る諸民族集団の枠組みの基礎をなしていることを,ほぼ証明しえた。同時に,特に嫩江流域においては,清末以降の土地開放と移民流入が,各集団の分布や社会・文化に大きな影響を及ぼしていることも確認できた。ただし,18世紀から清末に至る時期における変化については,現時点では史料の分析が不十分で,今後の課題とせざるを得ない。
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