ネップ体制の成立を1921年飢饉と関連づけるなら、以下のことが明らかとなった。 1.1921年飢饉は従来主張されているよりもはるかに広汎な規模で罹災し、特にヴォルガ流域、シベリア、ウクライナなどいわゆるロシアの穀倉地帯で被害が大きく、それはソヴェト=ロシアの政治的、経済的レヴェルで大きな影響力を持った。 2.この飢饉を援助する余力はすでにポリシェヴィキ権力にはなく、アメリカ合衆国のNGO団体、ARAを含めて、国外組織の援助のみが実質的に機能した。 3.戦時共産主義政策は内戦によって余儀なくされた政策であると、これまではレーニンをはじめとするポリシェヴィキ指導者の言質を根拠に主張されてきたが、むしろ内戦の終了後にこの政策はより厳しく適用された。 4.当初の現物=食糧税の構想は戦時共産主義期に調達分配制度の根幹となった割当徴発の延長上に、すなわち、割当徴発制度を調達機能と分配機能に分離し、現物税+商品交換によって、未来の社会主義的生産物交換を目指していた。 5.21年3月の第10回党大会の決議までは基本的にこの路線に基づいていたが、割当徴発による食糧調達の停止はこれまでの食糧事情を極限にまで悪化させ、食糧資源を持たず住民に食糧供給ができないポリシェヴィキ権力は従来の取引禁止政策を解除し、自由取引による住民の食糧獲得を図ったのが、3月28日づけ自由交換に関する布告であり、これは従来の路線からの大きな逸脱であり、新しい体制の嚆矢となった。 6.これは食糧を求めての大量の担ぎ屋を全土に招き、これを組織する目的で導入されたのが協同組合商品交換と労働者組織商品交換であった。これらは穀物調達で国家商品交換と対立するようになり、未来社会を展望する商品交換体制はこのために21年秋までに実質的機能を果たすことなく崩壊した。 こうして1921年飢饉の中でソヴェト=ロシアは、自由市場が全土に展開する中での新体制、ネップ体制の構築を余儀なくされた。
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