17年度については、十世紀にイスラム海賊の巣窟として悪名を馳せた南仏のフラクシネトゥムと、ビザンツ=西方関係との関連について考察した。フラクシネトゥムの海賊はティレニア海一帯を荒らしまわり、931年にビザンツ領南イタリアでも略奪をはたらいたことで、同年ビザンツ海軍は敵の本拠地に報復攻撃を加え多大の被害を与えた。しかしフラクシネトゥムは一本道の隘路の山城であったため、これを陥落させるには海上封鎖と陸上包囲の両面作戦による長期戦でなければ攻略は不可能なためビザンツ海軍のみでの攻略は不可能であった。そしてフラクシネトゥムは早期に勢力を回復し、932年にジェノヴァに壊滅的な被害を与えた。翌年にローマの権門テオフィラクトゥスの総帥アルベリクス二世がビザンツに外交上急接近するのは、当時教皇領の海岸線をビザンツの派遣艦隊が防衛していたことと無関係では有り得ない点を指摘した。 またフラクシネトゥムは陸上においても南仏はアルル地方、北イタリアはモンペリエ地方、さらにはアルプスへと略奪基地を設け、一時期「スイスの主人」となったとも評される脅威へと成長していた。この状況を打破し、フラクシネトゥムを陥落させたのが、ビザンツ海軍とオットー一世との連合軍であったことに着目した。なぜなら、この共同作戦はビザンツ皇女テオファノとオットー二世との婚姻同盟の折衝と同時進行で練られたのが状況的に確実であるからである。通常オットー朝とビザンツとの外交折衝はオットーのローマ皇帝称号を巡る東西対立の構図で考察されてきたが、史料上実際の交渉の場面では両陣営による皇帝称号を巡る激しい応酬は無く、またオットーは終生皇帝称号に「ローマの」という修飾語は使用しなかった点から、オットー側の意図はフラクシネトゥム攻撃のために、渋るビザンツに海軍を提供させようとすることにあったと指摘した。
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