18年度については、プロヴァンスのイスラム海賊の拠点であり、アルプスに砦を築いて南北間の交通を阻害してきたフラクシネトゥム陥落後の、ビザンツと西方との交流とビザンツ諸文化の西方での伝播と受容について考察した。 オットー・ルネサンスと呼ばれる十世紀後半から十一世紀初頭にかけての文芸復興については、近年のビザンツ文化史研究者によって、ビザンツ文化の影響が指摘されるようになってきている。図像については、髭のあるキリストやパントクラトール(全能者)キリスト図、ニンバス(光背)やデーシス(中央のキリストの左右に聖母マリアと洗礼者ヨハネを代願者として配した図)、それまでアルプス以北では絵画表現の題材とはならなかった聖母マリアがバシリッサ(ビザンツ皇女)型マリア像や聖母子像が受容された。文学作品では、聖ニコラオスを中心とした東方聖者伝がナポリを中心とした南イタリアで初めてラテン語に翻訳され、西欧に広く伝播し、その影響はイベリア半島での東方聖者崇拝によっても確認されている。加えて、近年の研究の最大の特徴は、ビザンツの政治文化の西方での受容である.皇妃称号や共治統治者や摂政という制度は、ビザンツ帝国のオリジナルであったものが、十世紀の後半以降西方の有力支配層に採用されたものである。ビザンツ皇女からオットー二世の妃となったテオファノは、オットーの生存中に既に勅許状に連署する共同統治者であり、夫の死後は摂政として幼い息子オットー三世を後見したが、このような西方帝国に前例の無い政策が可能であった背景には、西方の支配者が既にビザンツ政治文化を受容していた点と、当時南仏のラングドックでは尚イスラム勢力が健在であり、ユーグ・カペーがビザンツとの政略結婚を計画したように、対イスラム防衛にはビザンツ艦隊の第四次遠征への期待が未だ熱烈に存在していた点を指摘した。
|