既存研究では、東西皇帝称号問題や東西教会問題の視点で考察されてきた9〜10世紀のビザンツ=西方関係史を、本研究では対イスラム匪賊に対するビザンツと西方の共同防衛体制の観点から考察しなおした。その結果明らかとなったのは、同時期の西方はイスラム海賊に対抗し得る海軍力を欠いており、海賊対策にはビザンツ艦隊の援助が不可欠であった点である。しかしビザンツは対ブルガリア、黒海方面、東方戦線をも抱えており、西方の期待に応えて艦隊を常時提供するだけの余裕はなかった。南イタリアでのランゴバルド国家の反乱の時期を見ると、シチリアのイスラム勢力の内紛時に勃発しており、その背景には十分な戦力を提供してくれないビザンツに対する積年の不満を見て取ることができる。その証拠に、イスラムの侵入があると反乱側はすぐにビザンツに陳謝し、援軍の要請を行っていた。 既存研究では東西皇帝称号問題のクライマックスとされるビザンツとオットー大帝との問題にしても、実際の交渉では皇帝称号にはほとんど言及されず、話題は両国間の婚姻同盟であるが、ビザンツ皇女テオファノの降嫁の翌年には、南仏プロヴァンスを拠点に北イタリアやアルプスにまで勢力を拡大していたイスラム海賊の巣窟フラクシネトゥムがビザンツ艦隊の海上封鎖のもとで陥落したことが示すように、オットーの婚姻同盟政策は艦隊提供をビザンツから勝ち取るためのものであったと結論した。 そして、ビザンツの南イタリア征服とフラクシネトゥム陥落によって南イタリアからアルプス以北を結ぶルートの安全が確保されたことで、交流が活性化し、ビザンツ図像表現や東方聖者伝などのキリスト教文化が伝播し、また共治帝や摂政というビザンツ政治文化が受容された。そしてビザンツ文化の広範な受容の背景にも、フランスやレオンが対イスラム用にビザンツ艦隊に対する援助要求がうかがわれることを指摘した。
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