今年度は、アレクサンドロス大王が東方遠征の過程でオリエントの政治的文化的伝統にいかに適応したかという問題について研究した。事例としてエジプトとバビロンを取り上げた。 前332年末にエジプトに入ったアレクサンドロスはファラオとして戴冠したと言われる。しかしこれを伝える伝承はいわゆるアレクサンダーロマンという後世の物語のみであり、戴冠の事実は確認できない。しかるにルクソール神殿には彼のファラオとしての称号が神聖文字で残されている。おそらくエジプトの神官たちは、ファラオなくしては世界の秩序が維持できないとの神権理念にもとづいて、大王を暫定的なファラオとして受け入れ、理念と現実との折り合いをつけたと考えられる。こうしてアレクサンドロスは事実上のファラオとしてエジプトに君臨することができた。これは彼がアモン神殿を訪問した際に神官が彼を「神の子」と呼びかけた事実によっても傍証される。 前331年にバビロンに入城した時は、盛大な歓迎儀式で迎えられた。バビロンの粘土板文書によると、彼はバビロン総督らと事前に入念な打ち合わせをしており、布告の中で、神殿を尊重し、市民の財産を略奪しないことを約束した。一方バビロニア人は、外国人支配者を受け入れる際の伝統的なやり方に従ってアレクサンドロスを受け入れ、主神マルドゥクが前任の悪い王を追放しアレクサンドロスを正しい王として招いたと解釈した。 以上のようにアレクサンドロスはオリエント征服にあたり、諸地域のそれぞれに伝統に自らを適合させ、各土地の正当な王として受け入れられたのである。ただし中央アジア方面ではこの方式は通用せず、凄惨な戦いによる平定戦となった。その比較と原因究明が次の課題である。
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