ライプチヒとケルンの商科大学の「学籍簿」(Stammbuch>から、国籍、性別、信仰、出自に関するデータを収集して学生構成を分析した。分析の対象はライプチヒでは5874名、ケルンでは5024名である(今回、出自に関するデータの入力は終了できなかったため、集計作業は未完である。)ライプチヒでもケルンでも学生数は第一次世界大戦前から急激に増加し、1914年に600名をこえた。これはハイデルベルクやゲッチンゲンなど、中規模の古典大学の法学部の規模に相当するが、この急激な学生増加の背後にカトリック、女性、外国人の大量の入学があった。商科大学は、高等教育の世界で少数派であったカトリックに広く門戸を開放し、さらに、ながらく高等教育から排除されていた女性に新しいプロフェッションとしての商業教師への道を開いた。また古典大学以上に外国人を集め、ケルンでは学生の13パーセントが留学生であった。注目すべきは、そのなかには大量のユダヤ人がいたことである。ライプチヒでもディプローム試験に合格したロシア国籍の留学生の44パーセントがユダヤ人であった。ケルンでもライプチヒでも、外国人、とくに外国のユダヤ人に利すること少なくなかった。このことはブルガリアの少数派であるギリシャ・カトリックにも妥当する。ケルン商科大学に留学したブルガリア国籍の2パーセントが、また、ライプチヒではディプローム試験合格者のブルガリア人の34パーセントがギリシャ・カトリックであった。商科大学は国境の内部と外部で新しく学生市場を開拓することに成功した。それは創設者の意図をこえて、高等教脊における少数派と社会的な少数集団に広く門を開いた。
|