今回の研究においては、古墳時代以降の東日本太平洋岸及び西北九州地方における漁撈民の動向、歴史的役割に関し、下記の点を明らかにした。 東日本太平洋岸においては、古墳時代から各地域漁撈民間の交流が見られるが、関東地方の漁撈民は、5世紀代からの大和王権による朝鮮半島への進出において、水軍として参加したものが存在した。さらには7世紀段階からの東北地方の「エミシ」征服活動においても、水軍として参加した。8世紀に入ると多賀城が造られるが、そこでは多賀城のための「贄」貢納、あるいは製塩に従事する漁撈民も出現した。塩はエミシに対する軍事行動においても必要とされたものである。また多賀城を拠点とし、北方への進出のため、海側からの軍事行動にも参加した。 西北九州では縄文時代以降、海獣類・大型魚類を対象とした漁撈活動が活発に行われていたことが、彼らは交易民としての役割も果たしていた。弥生時代に入ると、そうした役割と共に、具体的な彼らの姿、すなわち後にアマと呼ばれることとなる潜水漁撈民としての活動も確認される。さらに古墳時代以降、専業的な「贄」貢納集団として発展した。同時に捕鯨専業集団も成立した可能性がある。こうした漁撈民集団は朝鮮半島などとの交易・戦役にも重要な役割を果たした。そうした流れの中で、中世において「海賊」・「倭寇」として知られる人々の基盤も形成されたと理解されるし、そこに「家舟」漁民の原型を見ることもできる。また捕鯨の伝統は、考古資料からするなら、近世において盛況を呈した西海捕鯨に繋がる可能性があることが判明した。
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