本研究は中国戦国時代から前漢初期に至る墓葬資料の検討を通して、秦漢帝国による地域統合過程を明らかにすることを目的としている。対象地域は長江中流域および長江上流域であるが、今回は比較的資料が整っている湖北省荊州地区、四川省成都市を取り上げた。 荊州地区の戦国時代墓葬は、木槨木棺墓・木棺墓を基本とし、副葬品は青銅礼器およびその模倣陶器を中心とする規範性の高いものであった。しかし戦国中期に秦により占領されるとこの規範性が崩れ、副葬品の中心は日用陶器へと移る。さらに漢代になると、長安の墓葬と同様に陶倉や陶竈といった明器が副葬されるようになる。これに対して成都市における戦国時代墓葬は、刳抜木棺を葬具とする船棺墓を基本とし、副葬品は地域性の強い巴蜀青銅器を中心とし、これに楚系青銅器加わる場合もある。戦国時代中期の秦の占領以後も船棺墓と巴蜀青銅器の組み合わせは継続するが、同時に木槨木棺墓や木棺墓や秦式の日用陶器・鉄器・半両銭・秦式印章もみられるようになる。漢代に入ると船棺葬や巴蜀青銅器は姿を消し、荊州地区同様の墓葬が見られるようになる。 つまり戦国時代楚国の中心地であった荊州地区では、秦の占領により急速にそれまでの楚的な墓葬が姿を消すのに対して、中国的な国家が存在しなかった巴蜀地域の成都市では、秦の占領後もそれまでの墓葬が基本的には維持され、完全に地域的な特徴が姿を消すのは漢代に入ってからになる。このような違いが生じた背景には、荊州地区ではそれまでの規範を担った楚の支配層が消滅し秦の郡県支配に組み込まれたことで急激な変化が生じたのに対して、巴蜀では現地の首長層を徐々に取り込んでいったため墓葬の変化は漸移的であったと考えられる。つまり両地域における秦占領以前の状況の違いにより、秦の占領政策には違いが生じていたのである。
|