本研究は、豊臣期大坂城下町に帯状街区と面的街区の2種類の街区構造が存在していることを確認したことが端緒である。 近世初期の織豊系城下町の中には、並行する2〜3条の道路を基本軸とし、周辺部に存在する流通拠点となる町場に向かって延長させ、それを取込もうとしている。ここには住民の格差がはとんどなく、一定の奥行きの敷地が道路の左右に展開しているのである。 この構造の街区は、織田信長が築いた小牧や岐阜城下町にも見出せ、それ以降の織豊系城下町にも継承されており、帯状街区の初源が織田段階に萌芽していると考えることができ、織豊系の城下町の基本構造であったと推定できた。 面的街区は中世の近畿地方に見られる集村や寺内町のような街区構造を取る集落で、階層性を窺える構造となっている。帯状街区と相対する構造の面的街区が近世初頭の城下町に取込まれた際に、どのように変容していったのかを採ることを目的とした。 大坂城下町の天満寺内町では両側町を形成しており、城下町特有の街区構造に変化している。天満寺内町はこの後、京都へと移転させられ、さらに整然とした両側町となっている。 天満寺内町成立以前の中世段階には平野環濠都市が街区の再編を行っているが、そこに建設された町は面的街区が採用されている。近世においても都市周辺の在郷村においては、面的街区が遺存している。 面的街区を基本とする集落が城下町に取込まれるにあたっては、面的街区構造は採用されず、城下町特有の両側町が採用されていることが判明する。
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