研究課題/領域番号 |
16520474
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研究機関 | (財)大阪市文化財協会 |
研究代表者 |
黒田 慶一 (財)大阪市文化財協会, 調査研究部調査課, 主任学芸員 (30344360)
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研究分担者 |
田中 哲雄 東北芸術工科大学, 芸術学歴史遺産学科, 教授 (00316457)
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キーワード | 倭城 / 豊臣氏大坂城 / 徳川氏大坂城 / 朝鮮の邑城 / 石垣 / 矢穴 / 国際研究者交流 / 韓国 |
研究概要 |
平成16年度の金海竹島倭城日韓合同測量調査の成果を踏まえ、日韓の城郭研究者を大阪市内に集め、朝鮮の役における軍事文化交流史を中心とした国際シンポジウムを開催した。シンポの名称は「韓国の倭城と大坂城」で、2日間にわたり基調講演1本60分、研究発表11本各45分、討論120分を実施した。倭城築造の朝鮮の役は1592-1598年で、豊臣秀吉の大坂築城(1583年開始)と徳川幕府大坂城再築(1620年開始)の中間に位置し、秀吉晩年の三の丸築造(1598年開始)と併行することから、1 倭城から秀吉の大坂城を復元するヒントが得られる、2 時期が限定された倭城の石垣の検討から、徳川氏大坂城に至る矢穴の変遷がたどれる、3 日韓の研究者で討論することにより、役による城郭技術の相互交流の実態について共通認識が得られると考えた。また最近の発掘調査を発表の中に盛込んで討論に幅をもたせた。すなわち三の丸の堀は江浦洋氏、亀浦・金海竹島両倭城は李東注氏、徳川氏の東六甲石切丁場は森岡秀人氏である。討論は石垣と縄張りの2本立てで、1は渡辺武氏が講演で文献史から豊臣氏大坂城を再整理した以上には進まなかったが、2は(1)文禄時倭城の矢穴の見えない石垣石加工について西川禎亮氏が割り方を推論し、(2)堀口健弐氏は倭城に日本国内では新しい要素にされる小さい矢穴が確認されるとし、(3)羅東旭氏は役以前に邑城には栗石はないとした。3は(1)太田秀春氏は役緒戦では日本軍は単郭の邑城を利用し名護屋陣と同じ分散した築城観であったが、対外戦争の緊張から求心性を求めるようになり南海岸倭城築城に至ったとし、(2)日朝の異文化交流で表面的な技術の受容はあるが、永続しないのは文化やシステムが違うからとし大方の同意を得、(3)関ヶ原以降の大量築城を経験し、材の規格化や生産のマニュアル化が矢穴利用を押し進めたとした。倭城併行期国内城郭縄張り図集成作成も決議した。
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