本研究は、近年の考古学的調査の進展に鑑み、発掘遺構および地理的な事象や文献史料の再検討を通じて、従来不明であった7世紀以前の宮殿の所在を具体的に推定すること、そして占地の面を中心に、宮殿や官衙としての通有の特徴と、時代や地域による変化を把握することを目的とした。 このため、まず7世紀代の宮殿を対象に、水系上の位置や標高および周囲との比高、当時の主要道路との関係などを整理し、それに基づいて6世紀以前の諸宮に関する考古学的データを収集した。そして、得られたデータと『日本書紀』『古事記』『扶桑略記』『帝王編年記』などの基本的文献を軸に、具体的な候補地を選定し、史料との整合性および占地の面から妥当性を検討した。あわせて現地に赴いての踏査も実施し、官衙の占地についても、7〜8世紀を中心に、宮殿との比較の観点から資料の収集をおこなった。 大和のほとんどの宮殿は、大局的には奈良盆地の縁辺部に位置し、立地や眺望のうえで、尊崇の対象となった山々との緊密な結びつきが看取されるが、こうした立地は防御面でも有効であった。また、地形的には、初瀬川とその支流が形成した低位段丘面に占地する例が圧倒的で、周囲にくらべ高燥かつ充分な面積を確保できる空間を選択したことがうかがえる。そして、多くが当時の主要な交通路と直接結びつくか、それらを比較的間近に望見できるような交通の要衝に位置していた。 一方、宮殿の所在地は、磯城地域に集中する段階から、飛鳥→石上→泊瀬→磐余という宮地の輪奐を経て、6世紀には磐余地域、7世紀には飛鳥地域に一定の集中を見せるようになる。その背景には、政治機構の発達と局地的防御体制の構築があり、同時に、仏教寺院の受容後は、それと結びつくかたちで、王権を象徴する視覚的モニュメントとしての効果が意図されたものと考えられる。
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