本研究は、ナチス優生法制を「生殖管理国家」の1つとして位置づけ、当時の国際関係のなかでナチスの特徴を明らかにすること、ならびに、戦後ドイツの生殖法制への影響を検討することを目的とした。 (1)「生殖管理国家」としてのナチスは、促進的優生学と抑制的優生学の双方を追求したが、技術水準の低さから前者については初歩的レベルにとどまり、後者の非人道的政策が実践される。断種法による被害者およそ40万は男女半々であるが、ジェンダー・バイアスが顕著で、身体的・精神的負担は著しく女性に偏った。形式上の手続の慎重さは健康な男女の断種を避けるためであり、「共同体異分子」としての障害者の断種は事実上の強制が多かった。 (2)国家による生殖管理は19世紀末以降進展する社会国家建設の一環であり、ナチスドイツに限定されることではない。遺伝学や優生学の性格に応じてとられる政策は異なった。獲得遺伝主義が強かったのは仏・露・米であるが、優生学は仏では家庭医学に吸収され、露では弾圧され、米では移民制限策として利用された。生得遺伝主義が人種衛生学となったナチスでは、断種のほか血統・同性愛・売春・中絶などに関する政策が連動しつつ生殖管理法制として遂行された。 (3)ナチス経験は、戦後ドイツの生殖法制の方向性を決定づけた。ナチスによるドイツ人迫害は戦後も長く清算されず、ドイッ政府や医学界がその責任を公式に認めたのは1980年代である。その後の中絶法制や胚保護をめぐる議論では「人間の尊厳」(基本法第1条)がキータームとされ、生命保護の立場が強調されている。今日のドイッでは、アメリカ型から意識的に距離をおく生命倫理が模索されている。 (4)今後の展望としては、共編著『セクシュアリティと権力』に論文を執筆するほか、胚保護に関する共同研究を行う予定である。
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