本研究は、日本国憲法の規定する社会権のうち、25条の「生存権」及び26条の「教育を受ける権利」について、人権の中核となる思想を表す憲法13条の「個人の尊重」を解釈基準として捉えなおす研究を行ったものである。またその前提として、「個人の尊重」やその自律、あるいはそれと密接な関係を有するドイツ連邦共和国基本法1条の「人間の尊厳」について、その理解の進化を図った。その成果が、「『故人の尊厳』保護」、「人間像の転換?」、「無期限の保安拘禁の合憲性」及び「日本国憲法における実定規範としての『人間の尊厳』の位置づけ」である。しかし、研究課題に直接応える研究成果は、「生活保護と『個人の尊重』」及び「『教育を受ける』側と『教育を行う側』の個人」の二論文である。 前者では、生活保護受給者がありふれた行為でさえ制約されることがあるのは、憲法25条の「最低限度の生活」からイメージされる人間像に基づいていること、また野宿者の生活保護からの不当な排除も、保護機関の想定する人間像に起因し、それが生活困窮者の生き方を実質的に規制していることを示した。そして、このような問題を克服する為に、生存権が「自由の実質化」を目的とするものであり、憲法25条の背後には13条の「個人の尊重」が存在するという憲法規範の重層構造を明らかにした。そしてこの構造からすれば、一般的に社会保障を受けている人も、その保障の下で個性ある生活を送ることを憲法は要請しており、上記のような規制や排除は許されないことを論じた。 後者では、教育を「教える者」と「教えられる者」の個性の対峙を基本構図に、「教育を受ける権利」を教える側に存在する一般的な権力性を限定するものと捉え、具体的考察を行った。大学の場合、教員の「教授の自由」は「研究の自由」からではなく、教育を受ける学生の側から正当化されるべきであることを明らかにした。また子どもに対しても、未熟であってもその「個性」を出発点とし、公教育の要請から一定の方向へ教導する場合も、その抑圧を防止する方策を示した。そして、教育をする側の個性については、教師の場合、公教育の目的と子ども達の個性への尊重によって枠づけられた「職務上の個性」でなければならず、親も教育は子を保護する者としての権限の行使であり、自らの個性を抑制すべき場合があることを指摘した。最後に「教育の自由」等の基本概念を批判的に検討し、「国民の教育権」について、その読み替えの可能性と限界、そしてそれを補う憲法による公権力規制のルートを示した。
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