わが国は1952年4月に独立を果たすと、恵まれた経済環境のもと戦後復興、高度経済成長へ邁進する。特に1955年9月にガット加盟を果たすと、経済政策の方針がそれまでの国内資源開発から貿易による経済成長へと大きく転換したが、これは低開発地域の開発計画にも大きな影響を与えた。それを如実に示すのが、所得倍増計画の産業立地小委員会が提案した「太平洋岸ベルト地帯構想」である。この構想では、国土を既成工業地帯、既成工業地帯に連なるベルト地帯、開発地帯(北海道や日本海、南九州などの低開発地帯)、その他地帯に4分類し、所得倍増計画においてはベルト地帯を優先的に開発し、開発地帯は所得倍増を達成した後に工業化をはかるとした。その構想に対して開発地帯からの反発か大きく、結果として1962年に全国総合開発計画を策定し、ベルト地帯以外の地域にも工業化を進めることで、地域間の所得格差を是正することが決まった。そして、工業化が難しい地域に対しては、1961年に施行された農業基本法に基づいて農業の合理化・近代化、すなわち農地の集約と機械化、余剰農業就業者の工業地帯への移動によって、農業就業者1人当たりの耕地面積を拡大し、機械化された農業によって農工間の所得格差を是正しようとした。しかし、農業の機械化などの合理化はある程度進んだが、農地の集約、稲作から酪農や果樹園芸などの付加価値の高い農業への転換は成功せず、結局は食管法が象徴する保護主義的な価格政策によって農工間の所得格差を是正することになる。1964年度から始まった奄美群島振興計画でも、奄美群島の基幹作物である砂糖キビを対象に農業基盤整備、分蜜製糖工場の設置など農業の合理化・近代化が推し進められた。それによって、砂糖キビの収穫量や砂糖出荷額も増大した。しかし、結果として奄美の製糖業が国際競争力を持つことはなく、稲作が辿った途を砂糖キビも進むことになる。奄美群島振興計画は名称からすれば、奄美群島という特色のある地域を対象とした開発計画であるべきであるが、その内容は農業基本法という全国一律の基本的な政策の止まっていたというのが結論である。
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