奄美群島も沖縄も、敗戦とともに日本本土から切り離され米国によって統治された。その後、奄美群島は1953年12月に、沖縄はそれに遅れること19年後の1972年に本土復帰を果たした。まず奄美群島を対象に奄美群島復興特別措置法が制定され、群島民の1人当たり所得を本土の1935年当時の水準まで引き上げることを目標に、1954年から5年計画で復興計画が始まった。しかし、5年間では計画に盛られた事業を実施することができず、計画は10年計画に策定し直され、1963年に予定していたほとんどの事業を達成し復興計画は終了した。重点的な社会資本整備によって群島民の生活環境は飛躍的に改善され、生活水準も戦前の本土並みという目標も達成するとはできた。ところが、到着点に立ってみると、目標としていた本土経済は高度経済成長によって遥かかなた先にあり、奄美群島の相対的な貧しさは改善することができなかった。 そこで、奄美群島復興特別措置法が改定され、奄美群島振興特別措置法のもと今度は郡島民の生活水準を鹿児島本土に近づけることを目標に、奄美群島振興計画がスタートした。当時のわが国は工業化による所得倍増計画に邁進していたが、奄美群島振興計画では工業化ではなく、主要産業である糖業に対して重点的な資本投下が行なわれた。ところが、加工貿易型の高度経済成長は必然的に自由貿易の路に繋がり、奄美の主要産品である砂糖は既に保護作物であった。結論から述べると、1人当たりの群島民の経済生活は本土並みの向上を図ることができたが、その大きな要因の1つは群島民の流出であった。奄美群島は1人当たり所得水準の向上と引き換えに、過疎の問題を抱えることになった。 さて、1960年代後期には沖縄の復帰が現実味を帯びるようになり、琉球政府は沖縄振興開発計画の策定の参考として、奄美群島のケースを先例として調査している。そこから出て来た結論は、人口流出を避けるための工業化による経済振興策の策定であった。
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