ナチス期の貯蓄銀行組織は、軍備拡大と戦争準備を目的とした信用統制のなかで、しだいに政府介入を受け、中央組織だけでなく地方振替銀行と個別貯蓄銀行においても軍事金融の枠組みに組み込まれることになった。すでに1931年7月の金融恐慌以降、金融機関に対しては、銀行監督と利子率規制による消極的な規制が行われていたのであるが、1933年1月末、ヒトラーが政権を掌握すると、翌年初めまでに個別貯蓄銀行とその全国組織はナチス党員とライヒ政府人脈の強い影響下に入ることになった。1935年、ライヒスバンクが保有する手形をライヒ長期国債によって借り替えるという財務省・ライヒスバンクの方針のもとに、貯蓄銀行はその流動性準備をもってライヒ長期国債を購入することを余儀なくされ、ここにおいて貯蓄銀行はその資金運用にかかわる信用政策に対して積極的な介入を受けることになる。このことによって貯蓄銀行資金は、間接的に軍備拡大金融に貢献したことになった。しかし財務省とライヒスバンクによる短期から長期への債務構造転換方針は、この間に挫折し、1938年から39年にかけて、短期信用の継続と貯蓄銀行資金の軍需信用への直接活用、そして増税と財政政策の活用による軍備拡大が展開した。ここにおいて貯蓄銀行は信用政策を恒常的に拘束されることになり、4カ年計画と食糧確保、そして大戦開始後は、軍需産業のために政府から直接的信用統制を受けることになった。 貯蓄銀行は1930年代中頃まで「資本貯水池」として資金形成の重要な課題を担ったのであったが、同年代後半になると、貯蓄預金の伸びは増税、他の資金運用(抵当証券、保険など)と競合して資本市場安定化の課題を達成できず、そのことは1930年代末には、ライヒ公的債務の構造転換失敗とともに、従来の債務構造安定化政策・インフレ抑制策から無制限の軍備拡大とそれを目的とする積極的信用統制へと重心を移動したのであった。
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