啓蒙主義の説明原理(「普遍的な人間本姓」)に対して、人間・文化及び価値に関する思考を根本的に歴史化する世界観としての歴史主義は「代替不可能な歴史的個性」を説明原理として対質させることによって、歴史的世界を認識し、「説明」・「啓蒙」しようとした。この点を、ドロイゼン、ブルクハルト及びニーチェについて考察した。 G.ドロイゼンは「歴史学」で、ランケ学派の歴史学の自己認識の方法論的反省を企てたが(「歴史学が自らの課題とするのは、歴史的思考と歴史的研究のオルガノンであることである」、「歴史学は、歴史的研究の方法論と歴史的に研究可能なものの体系論、そして歴史的に研究されたものの位相論を包括する」)、その手法は、形式的認識原理・「カテゴリー」としての「歴史」と「対象領域としての歴史」(「知としての歴史」=「不断の成長」=「人間的なものの本質」)とを融合させ、超越論と存在論の境界を曖昧にするものであった(歴史的主体であり、かつ歴史的客体であるところの「歴史意識」=「歴史」、客観性と主観性の統一としての歴史的世界)。歴史学の方法としての「理解」も、この融合に由来する。 J.ブルクハルトは、歴史的考察の出発点を「忍苦し、努力し、行為する人間」に求め、「生」と「欲求」を説明基盤とし、生産的な力にして歴史的な力としての「人間精神」の連続性(=「人間学的不変数」)を説明原理としたため、方法は「情念論的」な「観照」「観想」といった直感的認識にとどまった。観想を可能ならしめるための概念装置は歴史的なものの「潜勢力」(普遍的な人間の欲求の表現=恒常的)の概念であり、潜勢力の表現としての「生の形式」ないしは「文化」(=可変的)の概念である。 F.ニーチェは、歴史的考察でいわば「生の哲学的転回」を行い、歴史を生の表現形態として規定した。ニーチェの思考はもっぱら「生問題」に集中し、歴史の認識問題は二次的問題に過ぎなかった。「生が認識や科学を支配すべきなのか、それとも認識が生を支配すべきなのか」というのが、彼の主要な問題設定であり、歴史を規範的に評価する原理として生の「健全性」の概念を強調した。健全性の条件は「忘却」であり、記念碑的歴史や骨董屋的歴史、あるいは客観性・科学性の理念は、「生に敵対的なもの」として退けられる。ただ、批判的歴史(=裁きを行う歴史)に「文化の造形力」を見ることはできた。
|