本年度は、1945年から1960年代を中心に、戦後における日本の人口政策の方向性を決定づけたと考えられる優生保護法の成立過程と優生保護法成立後の家族変動、家族計画運動が内包していた子ども観、親の役割観について考察し、以下のような知見を得た。 終戦後、政府が人口問題への直接関与に慎重にならざるを得ない状況下で、国会議員の間に存在した人口過剰および人口の逆淘汰現象への危機感、国民の中絶需要の増大、産婦人科医たちの中絶権獲得への欲求といった要因により、優生保護法は誕生した。優生保護法では、国民優生法よりも優生政策は強化され、優生手術(不妊手術)の件数は戦前に比べて増加したものの、精神病者の優生手術を推進するという本来の目的に対応した成果があがっていないと、優生政策推進派による評価は低かった。統計で見ると、優生手術の大部分は母体保護が目的であったことから、優生手術は中絶とともに、産児調節の機能を担ったといえる。過去に何回か中絶を経験した者の場合、医師の勧めにより、中絶を避けて優生手術を選択することが多かった。また、手術数の増加に伴い、手術を受ける女性の低年齢化が進行した。産児調節を目的とした不妊手術の増加、そして予想を超えた中絶の増加は、立法者にとって「意図せざる結果」であった。 中絶の激増への危機感は避妊知識・技術の普及運動を促進し、さらにそれは家族計画運動に発展したが、その運動は同時に、子どもに対する価値観や親の役割意識の変革を目指すものであった。すなわち、子どもを労働力資源として、あるいは老後の親を扶養する存在としてとらえる考え方を批判する言説を拡大させたのである。それと平行して、親の生殖に対する自己決定権の確立および子どもに対する親の養育・教育責任は強化された。
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