1.品川台場「東水園」の歴史 1)浮浪児・戦争孤児の生活手段は、窃盗・スリ・乞食などであり、子どもらの背後に犯罪組織が存在している場合もあった。 2)1946年9月、東京都・警視庁水上警察署は、占領軍東京補給廠の協力を得て、浮浪児・戦争孤児収容施設「東水園」を品川第五台場(後に第一台場)に設置した。人工島に収容すれば、一般の人々から隔離し、かつ逃亡を防ぐことができるとの判断である。東水園を港区高輪台小学校分校として、収容児童に対して義務教育を課した。子どもらはしばしば逃亡を試み、水死することもあった。1949年9月、台風による建物倒壊を期に東水園は閉鎖となった。 2.NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」(菊田一夫作、1947年7月5日〜1950年12月29日、790回)に関する研究 1)浮浪児救済・青少年不良化防止を銘打った「鐘の鳴る丘」に関する従来の研究は、同時代の印象・感想に依拠しがちであるので、「鐘の鳴る丘」放送台本(NHK放送博物館所蔵)を通読して放送劇の構成と内容を分析した。 2)「鐘の鳴る丘」は、復員兵修平と浮浪児たちが、浮浪児を食いものにする山田一家に立向かい、村人の偏見と闘いながら「少年の家」を建設し、やがては北海道開拓にも従事するにいたる、浮浪児自立の物語である。菊田一夫は「憐憫」と「取り締まり」(犯罪者視)の間におかれていた浮浪児・戦争孤児たちに、幸福に生きられるように、親を探し出し、養父母を見つけ、開拓農場建設に従事させた。 3)NHK第1・2放送における再放送、映画化、小説化、舞台劇化、紙芝居化、主題歌「とんがり帽子」レコード化など、「鐘の鳴る丘」の多数のヴァリエーションが存在した。わけても選抜高等学校野球大会行進曲に「鐘の鳴る丘」主題歌「とんがり帽子」が選ばれたことは、放送劇「鐘の鳴る丘」が広範囲に流布し、聴取者に好評を博したことの証左である。
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