研究概要 |
藩政期の城下町金沢における建物は板葺の裸木造であり、町家は隣家に側壁を接して延焼を促し、武家屋敷は300坪程度の敷地に屋敷林の空間を巡らして延焼を抑制したと想定される。大火は68件が記録され、50戸〜300戸未満の焼失戸数が56.2%を占めた。一端大火となれば、この程度の延焼規模に至る防火体制であった。藩政期を俯瞰すれば、焼失規模10,000戸前後の最大級の大火を除けば、宝永3年(1706年)以降、慶応3年(1867年)の藩末に至るまで、主に年間1,000戸未満の焼失が162年間にわたって連綿と続いている。季節としては、新暦の4月および5月が、件数としては合わせて44.8%、焼失戸数の累計としては61.6%を占めている。風向は、北・北東・東が多く、焼失戸数を合わせると79.9%を占めている。82箇所の火の見櫓や、定火消・町火消による昼夜不断の火の用心、家屋の屋根に天水桶を常設するなど、並々ならぬ火災への配慮が認められる。延焼範囲は町家地区の場合が65.1%と多く、武家地区への延焼は少なかった。当時の空間構造を復原し、延焼シミュレーションを実施した結果、史料の示す延焼の経緯と範囲が、破壊消防の推定を含め、近似的にトレースでき、大局的な精度について確認することができた。町家筋では帯状に、町家群では同心円状に延焼する点、寺院の境内や武家屋敷の庭などの広い空間はその樹林を伴って延焼を妨げる面等を認識することができた。現代では、延焼速度が1/2程度に遅くなるものの、旧武家地はむしろ近代に密度を増しており、延焼範囲はかえって藩政期以上に拡大する結果を示している。以上、調査によって仮説を立て、史実を確認し、シミュレーションで検証した結果、延焼と防火の態様や要因について具体的な知見を得た。今日なお延焼の危険をはらむ木造密集市街地の対策研究を進める上で、基本的な足がかりを築くことができた。
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