イタリア都市における個人邸宅や聖堂建築を含む公共建築と、街路・広場を含む公共空間との関係は、中世後期になって都市国家内で徐々に再整備されたといってよい。その促進の触媒となったものに次の2つがある。一つはこの時代に都市国家体制の中で都市の支配層として台頭してきた商人-市民による政治体制の中で街路が徐々に空間的に組織化する装置として整備されたことによる新しい傑出性と、もう一つは政府を構成する支配階級出身者によって徐々に建設されていった個人邸宅の記念碑性に対する意識であった。また、新しい街路に傑出性を要求した政府官吏自身がしばしば新しい都市邸宅(パラッツォ)を建設した人々であったことが整備の推進を助長したことは言うまでもないが、この街路整備とそこに面する住居のファサード・デザインが必ずしも当初から乱れのない関係をもっていたわけではなかった。新しい支配階級は、街路の景観整備と矛盾する土地所有に関わるいくつかの伝統的特権を放棄することで、初めて街路の理想的な形態を見出した。今日では当たり前の価値観である、街路に面する都市邸宅(パラッツォ)のファサード・デザインを創出することで街路美観に寄与するという発想のパラダイムは、ルネサンス期以前には存在しなかったのである。 本研究では、イタリア中世後期の街路景観整備に関する史料をフィレンツェ、シエナ、ペルージャ、ヴィテルボ、オルヴィエート等の都市条例に求め、同時期の住居建築デザインのパラダイムの変容が都市国家主導の街路景観整備と深い関係にあったことを証明することを目的としている。 我が国における中世後期からルネサンス期にかけてのイタリア建築史研究は、建築類型の研究や都市形成史という立場から研究がなされてきている。しかし、その当時の建築の様式や特徴は、建築家の創造的個性や美的精神によって醸し出されただけではなく、その時代の社会的制約やその政治体制の表徴体として存在している。そのような社会史的観点から建築文化を問い直すことが本研究の目標である。
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