イタリア都市における個人邸宅や聖堂建築を含む公共建築と、街路・広場を含む公共空間との関係は、中世後期になって都市国家内で徐々に再整備されたといってよい。その促進の触媒として、一つにはこの時代に都市国家体制の中で都市の支配層として台頭してきた商人-市民による政治体制の中で街路が徐々に空間的に組織化する装置として整備されたことによる新しい傑出性と、もう一つは政府を構成する支配階級出身者によって徐々に建設されていった個人邸宅の記念碑性に対する意識がある。 新しい街路に傑出性を要求した政府官吏たちは、しばしば自らの新しい都市邸宅を建設し、その街路の推進を助長したことは言うまでもない。パラッツォ・メディチは大聖堂広場の近隣街路における景観整備の間口アーチの統一的手法に倣って自らの都市邸館にラステュケーションを施し、パラッツォ・ルチェッライでは新しい支配階級の台頭を主張するかのごとく、パラッツォと個人ロッジアによって狭い公共広場を統一的デザインで囲い込んだし、書記官長バルトロメオ・スカラは、なかなか都市邸宅で埋まらなかったボルゴ・ピンティに率先して街路景観を演出する邸館をジュリアーノ・ダ・サンガッロに依頼して、初めて街路と邸宅の理想的なあり方、様態を見出した。今日では当たり前の価値観である、街路に面する都市邸宅(パラッツォ)のファサード・デザインを創出することで街路美観に寄与するという発想のパラダイムは、ルネサンス期以前には存在しなかったのである。 平成18年度の研究では、初期ルネサンスの都市条例と邸館建設との関わりに着目した。我が国における中世後期からルネサンス期のイタリア建築史研究は、建築類型の研究や都市形成史という立場から研究がなされてきてた、その当時の建築の様式や特徴は、建築家の創造的個性や美的精神によって醸し出されただけではなく、その時代の社会的制約やその政治体制の表徴体として存在している。そのような社会史的観点から建築文化を問い直すことが本研究の主眼であった。
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