近世「大社造」本殿と平面の共通する九水柱の建物は、山陰地方において弥生時代中期に初現するが、それが大社造の源流とは必ずしもいえない。しばらくの空白期間を経て古墳時代中期以降に九本柱遺構は数を増していく。そのなかに、ごく少数ではあるけれども、特殊な施設とみなされる遺構を含んでいる。一辺約25mの方形柵列の中に並列する百塚第7遺跡の57号、60号掘立柱建物がその早い例である。六世紀後半以前とされる菅原III遺跡の建物2も山間部の湧水地にたつ九本柱建物で、一般的な高床倉庫とはみなし難い。八世紀代と推定される三田谷I遺跡SBO1や杉沢IIISBO1など、神社本殿跡として有力視される遺構に連続する要素をそなえている。湧水・井泉等と係わる立地性、付属する1棟もしくは複数の建物群という類似点が確認され、建物個体については心柱が他の柱と同等もしくはやや小さい傾向を読み取れる。現状では、杉沢IIISBO1が8世紀の神社本殿跡として最も蓋然性の高い遺構であるが、天武朝頃とされる神祇官社成立の後の遺構であるという点をまずもって重視しなくてはならない。三田谷I遺跡SBO1も官社制成立以降の年代におさまる建物であろう。ところが、菅原IIIの建物2は六世紀後半以前の遺構であって、官社制の成立をはるかにさかのぼる。これが「神社本殿」と呼べる施設かどうかを保留するにしても、古墳時代後期における土着的な祭祀施設であった可能性はきわめて高いから、官社制成立以降の神社は古墳時代の祭祀施設の立地性や「本殿」の構造を継承しつつ、整備が計られたものと推定できる。要するに、古墳時代後期から奈良時代にかけての九本柱建物こそが、「大社造」本殿のプロトタイプと呼びうるものであり、その特徴を整理すると、平面が正方形に近くて、まれに横長長方形の場合があり、床面積は10m^2前後に平均化され、心柱は床束であった。
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